昨日は節分とのことで、SNSではこぞって恵方巻きを食したなどの報告がなされた。
わたしは豆や恵方巻きを買いにいく暇も気力もなくただ部屋で調べ物に徹していたのだが、今日になってふと節分に関する記憶を二つほど思い出したので、それを綴っていこうと思う。
幼少期は、年中行事を大切にしていた、と思う。
よく覚えていないのだが節分に関する記憶があるということはそういうことなのだろう。
恵方巻きをきちんと、定められた方角を向いて無言で食べてた思い出もある。
しかし、節分で食べるのは恵方巻きだけではない。
そう、豆である。
年の数だけ豆を食べるのだ。
地味と言っては失礼かもしれないが忘れられがちなのは事実だ。
一つ目の記憶は、そんな豆についてである。
わたしは恵方巻きより豆を食べる方を楽しみにしていた。
恵方巻きは具が多いため不器用なわたしにとっては食べにくいのである。
その一方、なんて豆は食べやすいのだろう。
失敗することといえば、手を滑らせ落とすくらい。
そんなわけでわたしは豆が好きな子どもだった。
年の数だけ食べるのだから、本来食べるべきは5つ6つ程度である。
しかしそれでは飽き足らなかったわたしは、母と祖母に代理で豆を食べることを申し出ていた。
彼女らは30個や60個食べなければいけないのである。
さぞかし大変でしょう、なんて言葉はまるで悪徳商法だ。
そんな悪徳商法に乗った母と祖母の分の豆も、わたしはむさぼっていた。
豆好きな幼稚園児の次は、鬼よりも「ご自由にどうぞ」に震えた幼稚園児の思い出である。
節分の日の準備のために母とスーパーに行った時の話だ。
出口に、様々な節分グッズが陳列されたコーナーがあり、その一角に鬼のお面が置かれていた。
それを見た母は、「ああもらっていこう。それ二枚持ってって」とわたしにいい、出口に向かっていった。
いくら幼稚園児とはいえ、店のものを購入せず無断で持ち出すのは犯罪だと知っている。
「おおおお母さん!!それはダメだよお金払わないと」と焦るものの、母は颯爽と出口へ向かう。
今思えば「ご自由にどうぞ」と書かれていたのだろう。
そもそも売り物、しかも紙でできているものを梱包もせず丸裸で置いていることがおかしい。
「とってっていいものなんだから大丈夫なんだよ」と言われるものの、それを信じられなかったわたしはお面を隠すようにして店を出た。
万引きかもしれないと恐れるあまりに、側から見ればまるで本当に万引きをしているかのような挙動である。
鬼を恐れていなかった、というよりは信じていなかったために豆を投げるより豆を食べることが主な目的だった幼稚園児は、ただただ「ご自由にどうぞ」のお面にだけ震えていた。
それが、イキリキャシーの節分の思い出である。