私は様々な文章を書いてきたが、その中でもお気に入りのものを公開したいと思う。
これを書いたのは一年前。
ようやく日の目を見ることになった尻破れエッセイだ。
必死に風と雪に立ち向かいながらアパートに帰ってきた私は、暖かい部屋に安心して荷物を置いた。
しかし、なぜか寒い。
寒いというか、風通しがいいというか。
しかも非常に局地的なものだ。
なんとも形容し難い違和感の正体を暴こうと思い、手を尻に置く。
私が有能だったのか、そいつの主張が激しすぎたのかはわからないが一瞬で気づいた。
ああ、尻破れだ。
ジャージの尻が破れてやがる。
ジャージが破れたのは初めての経験ではない。
もう一本のお出かけ用ジャージは、弁慶の泣き所が破れている。
そこが破れたところで特に支障はないので、一年半履き続けている。
しかし尻となると話が違う。
下手したら警察沙汰だ。
自分がお縄になるかもしれないし、誤って直視してしまった人をお縄にさせてしまうかもしれない。
それは避けたい事態。
尻破れのせいで自分や他人の人生を棒に振るなんて、とんだ害悪プレイヤーである。
だからといって安易に捨てるなんてできない。
尻破れだって4年の時を共にしてきた仲間だし、何より大切な戦力だ。
弁慶の泣き所破れ一本だけで生活するのは不可能である。
とりあえず縫うしかない。
破れたものは縫う。
シンプル・イズ・ザ・ベストってやつだ。
早速針と糸を買おう。
とはいえ外出する機会なんてそうそうない。
ただでさえ出不精な自分が、たかが針と糸のために10分かけてイオンに行くなんてありえない話だ。
家では高校のジャージ2本も戦力に加わるため、1本減ったところでさほど支障はない。
私は尻破れを尻目に、残り3本を使い回して1週間ほど過ごした。
しかし今は良くても、問題は4月以降。
4月に入れば大学が始まり、通学することになる。
キャンパス内だとしても、尻破れのままうろうろしていれば、いずれ他の学生を警察沙汰にさせてしまうかもしれない。
未来ある大学生の人生を守るためだ。
私は勇気を出して、徒歩10分のイオンに向かった。
100均は裁縫に疎い人間にも優しいようで、裁縫セットというものを入手することができた。
針と糸さえあればいいと思っていたが、まち針や糸通しなどの便利グッズも付いてきた。
まち針は覚えている。
縫う場所がずれないように押さえておくあれだ。
私は意気揚々とまち針をジャージに刺した。
うん、ここまでは順調だ。
この通りに縫えば、尻破れは塞がる。
裁縫チャレンジの三割くらいは終わったようなものだ。
本当はこれで完成にしたいが、針が2本刺さったまま履いてしまうと、私の尻本体が危ない。
やはり、縫うしかない。
意気揚々と糸通しで針に糸を通したはいいものの、どうもその先が思い出せない。
糸を縛らなければならないのは明らかだが、やり方どころかその名称も忘れた。
最後に裁縫をしたのは、おそらく高校1年生の時に家庭科でクマのぬいぐるみを作った時だ。
覚えているのはクマの柄くらいで、それ以外はさっぱり覚えていない。
今までの家庭科の先生たちに対する申し訳程度の罪悪感を抱きつつ、また教育の意義を問いながら
「裁縫」
と検索する。
世の中は裁縫に疎い人間にも優しいようで、「裁縫」だけで初心者向けサイトがずらりと並ぶ。
そこでようやく、糸を縛ることを「玉結び」と呼ぶのを思い出した。
縫い方より前に玉結びの方法を知る必要がある。
再び
「玉結び」
と検索し、一番上に出てきたサイトを覗いてみる。
そういえば人差し指に巻きつけるシステムがあったなぁ。
説明もろくに読まず、私は意気揚々と人差し指に糸を巻いて親指でこすり、糸を引っ張ってみた。
こんな感じだったはずだ。
しかし玉はできずに糸はピンと真っ直ぐに張っている。
巻いてある糸をほどく時はあんなに絡まるくせに、どうして絡まって欲しい時には絡まないのか。
人生とは思うようにいかないものだ。
まぁ5年のブランクがあれば玉結びができなくても仕方ない。
とにかく人差し指に巻いた糸をゴシゴシ親指でこすることで糸をよじらせ、玉を作ることを目指せばいいのだ。
どうせ説明にもそんなことが書いてあるのだろう。
写真を見れば大体わかる。
なんのために丁寧な解説付きのサイトを見ているのか分からないが、とにかく私は糸をよじり続けた。
複数回のよじりを経て、ようやく糸が絡まった。
ようやくスタートラインに立てたようなものなのに、これで裁縫チャレンジの半分はクリアしたようなものだ!と浮かれた私は糸を引っ張った。
しかし絡まった糸は、少しのたゆみを残したまま動かなくなってしまった。
引っ張っても、うんともすんともいわない。
玉というより、水ぶくれだ。
半分はクリアしたなんて、とんだうかれぽんちである。
しかし玉の部分が多少かさばっていたとしても、引っ張って動かないならそれは縛れているということなので、問題ないはずだ。
人間は見た目じゃないし、糸もまた然り。
玉が水ぶくれになっていたっていいじゃないか。
気を取り直して私はついに針を尻破れにそっと刺した。
刺した瞬間、勘の鋭い私はすぐに気づいた。
「これは不可能だ。完成する未来が見えない」
さっきまであんなに意気揚々とまち針を刺したり、針に糸を通したり、水ぶくれ結びを作ったりしていたのに。
人間とは不思議なもので、一気に失敗する自信を持ちはじめる。
しかし裁縫に疎い人間のただの勘。
具体的にどう失敗するのかは分からない。
とりあえず5チクチクくらいしてから様子を見よう。
そう思いながら、1チクチク目のために針をすーっと通す。
通したつもりだったのだが、針がジャージから抜けた瞬間に針は動かなくなってしまった。
どうした、事切れるにはまだ早いぞ。
そう思って様子を見てみると、どうやら先ほどの水ぶくれ結びのせいみたいだ。
結び目がかさばってても、引っ張って動かないならいいじゃないかと軽視していた水ぶくれ問題。
たしかによく考えてみれば、結び目がかさばってたら針の先が開けた小さい穴なんて通れないに決まってる。
失敗してしまったのでやり直そう。
そう思って針をバックさせようと思ったが、やはり動かない。
針自体は通り抜けてしまったせいで、針の先が刺した穴に針の頭を通さなければバックできない。
もう無理だ。
にっちもさっちもいかない。
1チクチクすらできないんだから、完成する未来なんて見えないに決まってる。
針をバックさせることも、糸を切ることも放棄した私は最終手段、「誰かに尻拭いならぬ尻縫いをしてもらう」を頼ることにした。
まち針2本、水ぶくれ付きの糸が通っている縫い針の計3本が刺さっている尻破れジャージの写真を撮り、
「尻拭いとして尻縫いしてくれる人いますか」
とSNSに載せる。
仲の良い友人はみんな実家だし、そもそも私は友人が多い方ではない。
ダメ元で載せた直後、ある友人から反応があった。
実家にいる友人だけど家庭科の教職取ってる人なので、何かしら教えてくれるのかなぁ、なんて思いながらDMを開く。
そこには
「マジな話買った方が早い」
の一文。
私は
「そうよね」
と返し、尻破れジャージに戦力外通告をすることに決めた。
私と尻破れジャージが過ごした4年間は、友人の言葉により一瞬で消え去ったのだ。
私は意気揚々と、新しいジャージを買いに行く店を探し始めた。
ちなみに、この尻破れジャージは尻に糸付きの針が刺さったまま物干しざおに干されている。
戦力外通告をされたのだから、干されたままなのは当然だろう。
干された芸能人は芸能界に帰ってこないし、干された尻破れジャージは一軍に帰ってこないということだ。